ご鎮座
永仁元年(1293)
主祭神
倉稲魂命(稲荷の神)
武甕槌命(鹿島の神)=経津主命(同神・古事記による)
建御名方命(諏訪の神)
配祀神
五十猛命・面足命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・応神天皇
東和町米谷秈荷山にあり、永仁元年(1293)葛西左馬尉重直の建立と伝えられ、代々の地頭たちの崇敬するところであった。往時この地方は葛西氏の勢力範囲であり、亀卦川氏系譜によれば、建治2年8月(1276)亀卦川胤氏が葛西清信に従い、奥州に下向し采地500余町を賜り米谷城を築城し、以来、天正18年(1590)葛西氏没落に至るまで米谷城主となる。
建武3年(延元元年 1336)奥州勢をひきて長駆上洛し、足利尊氏直義の軍を破った時、葛西軍は数々の戦功をあげましたが、葛西清宗は神楽岡の戦で、新田義貞の身替わりとして戦死し、この戦の後、葛西清宗の家来亀卦川胤明(葛西氏の重臣)が、主君清宗の冥福を祈って伏見稲荷神社に参籠し、帰途に際し守護神として居館(米谷館)の地に社殿を建立し、祭祀して稲荷大明神(銭金大明神・善賀大明神の別名有り)と称する。亀卦川氏没落後も村人の信仰の厚い社として栄えてまいりましたが、伊達政宗の時代(天正年間)に切支丹の蜂起により社殿が焼失(古記録が無いので詳細は不明)となりましたが、宝永2年(1705)領主高泉長門守の再建と伝えられ、秈荷神社として今日に至る。明治39年に鹿島神社と諏訪神社が秈荷神社に合祀されたとき、鹿島神社の社掌が退職し、諏訪神社の社掌髙橋譓之進が秈荷神社の社掌に専任され以来今日まで世襲されている。
境内に古くから伝わる「うみゆり」(海藻の化石)の塊があり、その断面の紋様が銭の形に似ていることから「銭金石」と称され、銭金山(秈荷)の地名の由来になったと伝えられる。(秈荷神社はもともと稲荷神社であり、秈荷の秈はうるちとも読み稲荷の稲と同じ意味を持つ字です。何時の時代に秈の字に置き換えられたのかは古記録が無いので不明)この秈荷山から「うみゆり」の化石が取れることから「銭がとれる山」そこから銭金大明神と称され、何時の頃からか3年5年と続けて参拝することで黄金(銭)が貯まるとも伝えられている。
また、境内には宝暦5年(1755)米谷住、大肝入亀卦川軍左衛門(俳名・左笠)が秈荷神社境内に芭蕉の句碑を建立
「木の下は汁も膾も桜哉」
御祭神は武御雷之男神(武甕槌命)にして、延暦20年(801)坂上田村麿が米谷城を引揚げる際に、捧持していた鹿島神宮の御神体が動かなくなったので、この地に社殿を造営し、家臣の米谷氏を残し守護させたと伝えられる。
その後鹿島神社は永仁元年(1293)葛西左馬尉重直が、米谷村鎮守社として同村宮前に勧請建立、正平15年(1360)神仏混仰の鹿島神宮寺として祈祷寺となる。この時祀られていた鎌倉期の作五体の不動明王の像は、明治初年の神仏分離の時、東陽寺に移管、本堂に安置される。
現在の鹿島神社社殿は、享保12年(1727)高泉兼元が修復し、明治8年(1875)秈荷神社境内に移築され、明治39年(1906)に秈荷神社へ合祀され現在に至る。
清めの御神水(龍神水)は、銭金石の御利益を授かった御礼として、さく井(井戸掘り)工事・御神水施設の奉納を賜りました。
境内聖域深く111メートルの水脈より汲み上げられています。
金運・財運隆昌の祈願に遠方から参拝される方も多くいらっしゃいます。
ご自身の紙幣や硬貨を清めて種銭とされてもよいでしょう。
主なご利益
諸願円満成就の神
五穀豊穣・国家安泰、家内安全、商売繁盛、勝運・武運長久、交通安全、厄除け病気平癒、火災・災難除け、金運・財運隆昌、産業守護(農・商・工・建)、学業成就、心願成就、縁結び、恋愛成就、安産、子育大願、大漁・海上安全、技芸・芸能上達、足腰健康、子孫繁栄、夫婦和合、子授け(子宝)、身体堅固、清め祓い、健康・美容
など多岐にわたり、摂社・末社を併せると更に多くのご利益があります。
※諸祈願成就のご祈祷・清めのお祓いの受付しております
1月1日 | 歳旦祭 午前0時(1月14日まで新年特別祈祷斎行) |
---|---|
1月15日 | 暁詣り(松納め・どんと祭) 午前5時半点火 |
5月1日 | 秈荷神社春季例大祭 |
9月上旬 | 鳥海神社(兼務社)例大祭 |
9月上旬〜 | 七五三祈願受付 |
10月1日 | 秈荷神社秋季例大祭 |
ありがたい事に近年毎年のように、祈願成就御礼・お守りいただいている事への感謝・事業繁栄の御礼など様々なご奉納を皆様から頂戴しております。奉納をご検討されている方は神社へお気軽にお問い合わせください。